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愛知県東部


あんしょうじょう

  
大乗寺山門と城跡の石碑

本多忠高の墓
 安祥城 (愛知県安城市安城町)
 天守:なし
 戦国期を中心とした主な歴史
室町時代中期に築城されたといわれる。
1471年 松平家(のちの徳川家)3代・信光が攻めとり、以後、4代にわたって松平家が支配する。
1524年 松平家7代・清康岡崎城を攻めとり、本拠を岡崎に移す。
1535年 守山崩れ。清康が殺害され、広忠が跡を継ぐが、松平家が弱体化する。
1540年 第一次安城合戦。尾張の織田信秀により落城(安祥城落城年は諸説あり)。
1545年 第二次安城合戦。織田信秀、攻め寄せた松平広忠を撃退する。
1549年 3月 第三次安城合戦。城将・織田信広、攻め寄せた今川義元の軍師・太源雪斎を撃退する。
1549年11月 第四次安城合戦。太源雪斎により落城。城将・織田信広が捕虜となる。
1562年 清州同盟。織田信長徳川家康が同盟したことにより、前線拠点の価値がなくなり廃城。
(メモ)
 現在、本丸跡は大乗寺、曲輪跡は八幡社となっているが、縄張り図と比べてみると地形がけっこう残っていることが分かる。
 第二次安城合戦のときに本多忠豊(忠勝の祖父)、第三次安城合戦のときには本多忠高(忠勝の父)が討死しており、大乗寺の墓地には岡崎藩主となった子孫が建てた忠高のお墓がある。
 1547年、松平広忠は、嫡男・竹千代(のちの家康)を人質として今川義元のもとへ送ろうとしたが、織田信秀に強奪されており、広忠の死後、太源雪斎が捕らえた織田信広との人質交換で竹千代は帰還した。その後、改めて義元のもとへ人質として送られている。
 時間があれば、安城市のソウルフード「北京飯」をお試しあれ。



おかざきじょう


復興天守

大手門(復元)
岡崎城 (愛知県岡崎市康生町)
天守:復興天守  日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
15世紀半ば、三河国守護・仁木家の守護代・西郷家が築いた砦が前身とされる。
1524年 松平清康(家康の祖父)が、岡崎松平家から奪い城主となる。
1535年 守山崩れ。清康が殺され、清康の大叔父・松平信定により占領される。
1540年 松平広忠(清康の子)が家臣らの助けで岡崎城主に返り咲く。
1542年 広忠と於大の方の間に竹千代(のちの徳川家康)が生まれる。
1549年 松平広忠が殺され、今川家から城代が送り込まれる。
1560年 桶狭間で今川義元が討死。松平元康(のちの徳川家康)が城を取り戻す。
1570年 徳川家康、浜松城に拠点を移し、嫡男・信康が城主となる。
1579年 信康切腹。以後、石川数正本多重次らが城代をつとめる。
1590年 徳川家康が関東に移封。田中吉政が城主となる。
1602年 徳川家臣・本多康重が入城。以後、徳川譜代が歴代城主をつとめる。
(メモ)
 江戸時代に入ると徳川譜代が歴代城主をつとめ、最後は忠勝系本多家が城主をつとめた。そのため、城跡には小さいながらも本多忠勝の銅像がある。
 城跡は公園として整備されているが、石垣や堀など遺構がしっかり残っている。現在のような近世城郭の原型を造ったのは、家康の関東移封後に入封した田中吉政。
堀跡(清海堀) 東照公(家康)産湯井
東隅櫓(復元)

三河武士の館


徳川家康像

三河武士のやかた 家康館

<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

牛人形鞍
 本多忠勝の愛馬・三国黒に使われた鞍。三国黒は関ヶ原の戦いで、島津勢を追撃中に鉄砲に撃たれて亡くなった。

鑓 銘 秋廣作 主本多中務大輔忠勝所持
 本多忠勝が所有していたという鑓。本多忠刻(忠勝の孫)と千姫(徳川秀忠の娘)の娘・勝姫が池田家に嫁ぐときに持たされた。

 
以下のものは、2010年「本多忠勝没後400年 本多家の遺宝」で展示されたものです。

本多忠勝所用 黒糸威胴丸具足 (重要文化財) 個人蔵
 大鹿角の脇立兜と胴にかけられた算盤玉形の大きな数珠が特徴的な具足。本多忠勝の画像にも描かれている。

本多忠勝画像 (重要文化財) 個人蔵
 黒糸威胴丸具足を着用した本多忠勝が描かれた画像。気にくわなくて9回も描き直させたといわれている。

佐藤忠信兜 個人蔵
 源義経に仕えた義経四天王のひとり・佐藤忠信の兜。豊臣秀吉が本多忠勝に褒美として与えたものといわれる。



だいじゅじ

成道山 松安院 大樹寺 (愛知県岡崎市鴨田町)
 松平家4代・親忠によって創建された松平家・徳川将軍家の菩提寺。
 1560年、桶狭間の戦いで今川方の先鋒をつとめた徳川家康(当時は松平元康)は、主君で総大将でもあった今川義元の討死を知るとこの大樹寺まで兵を引き、身の危険を感じて13代住職・登誉上人に自害を申し出た。
 すると、登誉上人は家康に「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど ごんくじょうど)」、この乱世を、浄土のような泰平の世にするのがそなたの役目であると訓して自害を思いとどまらせた。以後、家康はこの8文字を旗印として乱世を乗り切り、260年におよぶ泰平のを創り出すことになる。

(メモ)
 三門、鐘楼は江戸幕府3代将軍・家光が建立したもの。重要文化財に指定されている多宝塔は、家康の祖父・清康が建立したもの。その他、境内には松平家8代の廟所もある。
 宝物殿(位牌堂)には、松平8代と徳川将軍家の位牌が安置されており、それらの位牌は、亡くなったときの等身大でつくられている。

三門(県指定文化財)

松平八代廟所

多宝塔(重要文化財)



ほうらいじ


鳳来寺本堂

鳳来山 東照宮拝殿(重要文化財)
 煙厳山鳳来寺 (愛知県新城市門谷字鳳来寺)
 702年、利修仙人が開山したと伝わるお寺。本尊は薬師如来。

 戦国時代、岡崎城主・松平広忠と正室・於大の方は、このお寺を訪れ、子宝に恵まれるようにと参拝した結果、家康を授かったという。また、家康は寅の刻に生まれたといわれており、誕生の折、本尊・薬師如来を守る十二神将・真達羅大将(寅童子)が姿を消し、家康が亡くなると元の位置に戻ってきたという。そのため、家康は真達羅大将の化身であったとも伝わる。

 徳川譜代・井伊家ゆかりの寺でもあり、桶狭間の戦い後、遠州錯乱といわれる混乱期に、井伊直親が今川氏真によって殺されると、同じく命を狙われた直親の子・虎松(井伊直政)を匿っている。

(メモ)
 江戸幕府3代将軍・徳川家光は、家康誕生にまつわる話を聞き、仁王門を寄進し東照宮を造営している。仁王門と東照宮は現存しており、両方とも国の重要文化財に指定されている。
 お寺のある鳳来寺山は、登山客にも人気がある。スタート地点である参道入口から東照宮までには約1400段の石段があり、登るにはそれなりの覚悟が必要。石段を登りたくない人は、本堂、東照宮近くまで行ける駐車場もある(有料)。
 文武天皇の病気平癒祈願を命じられた利修仙人が鳳凰に乗って参内したという伝承が寺名の由来になっている。



ながしのじょう


縄張りの説明板

天然の堀として利用された
豊川(左)と宇連川(右)
長篠城 (愛知県新城市長篠)
天守:なし 日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
1508年 今川氏親に従っていた菅沼元成により築城。
    以後、長篠菅沼家が代々城主をつとめる。
1560年 桶狭間の戦い。
    今川家没落後、長篠菅沼家5代当主・菅沼貞景は徳川家康に属する。
1569年 貞景、家康に従って参加した掛川城攻めで討死。正貞が家督を継ぐ。
1571年 正貞、武田家臣・山県昌景に攻められ降伏する(西上作戦)。
1573年 正貞、家康の攻撃により開城退去。
同 年 武田から徳川に寝返った奥平信昌が城主となる。
1575年 長篠の戦い。信昌、武田勝頼の攻撃に耐え、勝利に貢献する。
1576年 信昌、城の荒廃をうけ、新城城を築城。廃城となる。

(メモ)
 けっこう立派な空堀と土塁が残っている。駐車場から城を正面に見て左側、飯田線の線路辺りから見る空堀と土塁は圧巻。歩行者用の踏切には警報機、遮断機がないため、入る場合は要注意。ちなみに飯田線は本丸と野牛郭の境に設けられた土塁を利用して敷かれている。
 城跡近くには、武田勝頼を戦場から逃がすために殿をつとめて討死した馬場信春(信房)の石碑もある。
 長篠城に勇気を与えた英雄・鳥居強右衛門(すねえもん)の看板が目印。
本丸土塁と空堀 本丸内から見た土塁 馬場信春忠死の碑(城跡近く)



ながしのしたらがはらこせんじょうあと


復元された馬防柵
長篠設楽原古戦場跡 (愛知県新城市設楽原)
 1575年に織田・徳川連合軍3万8千と武田軍1万5千が激突した戦場。
 徳川方の長篠城を武田勝頼が包囲攻撃したことにより、織田信長徳川家康が後詰(援軍)に駆けつけて始まった。
 連合軍は長篠城から少し離れた設楽原に馬防柵を築いて武田軍を待ち受け、突撃してきた武田軍を3000挺(1000挺とも)の鉄砲をもって撃滅した。
 この戦いで武田軍は、馬場信春(信房)、山県昌景信玄以来の重臣を多く失い衰退していくことになる。
(メモ)
 多くの武田家重臣が討死したため、その供養も兼ねて多くの石碑が建てられており、何となく武田家贔屓に感じる。
 以前、織田信長本陣跡へ行くのは少し困難であったが、今は新東名・長篠設楽原PA(下り)から簡単に行ける。ただし、主戦場の方角は木が生い茂り何も見えない。
武田勝頼本陣跡 織田信長本陣跡 徳川家康本陣跡
山県昌景の碑 内藤昌豊の碑 真田信綱昌輝兄弟の碑



みかわ のだじょう

  
石碑

縄張り図
 三河野田城 (愛知県新城市豊島
 天守:なし
戦国期を中心とした主な歴史
1508年 野田菅沼家初代・菅沼定則によって築城が開始される。
1517年 城が完成。野田菅沼家の居城となる。野田菅沼家は基本、今川家に属す。
1544年 定則隠居、嫡子・定村が家督を継ぐ。
1556年 定村、奥平家との戦いで討死。定村の子・定盈が家督を継ぐ。
1560年 桶狭間の戦い。定盈、今川家から離反した松平元康(のちの徳川家康)に属す。
1561年 定盈、今川家に攻められ降伏開城。
1562年 定盈、今川家から城を奪還する。
1573年 野田城の戦い。定盈、武田信玄に攻められ降伏開城、人質となる。
同 年 定盈、武田家との人質交換により帰参。
1590年 定盈、家康に従い関東へ下向。のち廃城となる。
(メモ)
 武田信玄が生涯で最後に落とした城。落城直後に信玄は喀血し、帰国途中で亡くなった。信玄の死因に関する伝説が残っており、その伝説では、実は病死ではなく、野田城から狙撃され、その鉄砲傷がもとで亡くったことになっている。信玄を狙撃したという場所には案内板が立っている。
 本丸と二の丸を繋ぐ土橋と堀の遺構がしっかりと残っている。本丸には水の手を断たれたと思われる井戸跡もある。周囲の地形も当時とほとんど変わっておらず、当時の姿を偲ぶことができる。

本丸と二の丸を繋ぐ土橋 井戸跡(本丸跡) 狙撃場所の案内板(本丸跡)



たはらじょう


二の丸櫓(復元)

桜門(復元)
田原城 (愛知県田原市田原町)
天守:なし
戦国期を中心とした主な歴史
1480年 戸田宗光によって築城される。その後、戸田家は松平家に従う。
1547年 戸田康光、今川家の人質になる予定だった竹千代(のちの徳川家康)を織田信秀に引き渡す。
 同 年 今川義元の怒りを買って城を攻められ、戸田康光討死。以後、今川家から城代が派遣される。
1560年 桶狭間の戦い。今川家没落後は徳川家康の支配下に入る。
1590年 家康、関東へ移封。吉田城に入った池田輝政の支配下に入る。
1600年 輝政、播磨姫路へ転封。以後、徳川譜代が歴代城主をつとめる。

(メモ)
 戸田康光による竹千代(のちの徳川家康)誘拐事件は、のちに清州同盟を結ぶことになる織田信長と徳川家康の出会いのきっかけとなった。
 竹千代を誘拐したことにより、戸田康光と嫡男・尭光は今川義元の怒りを買って討死し、田原戸田家は滅亡するが、康光の次男の家系は、今川家を裏切らずに名誉の挽回につとめ、のち家康の元で活躍、戸田康長は松平姓を許されて戸田松平家の祖となり、信濃松本7万石の大名にまで出世した。
 江戸時代後期には渡辺崋山を輩出しており、田原市博物館の展示物は、崋山に関係するものが多い。



あすけじょう


本丸の高櫓と長屋
(復元)
足助城 (愛知県豊田市足助須沢)
天守:なし
戦国期を中心とした主な歴史
1400年代 足助鈴木家によって築城されたといわれる。
1525年  鈴木家、松平清康に攻められ服属。以後、離反帰服を繰り返す。
1564年  鈴木家、徳川家康に服属。
1590年  家康に従って関東へ下向。廃城となる。
(メモ)
戦国時代的に大きな出来事があった城ではないが、戦国期の山城が、かなりの規模で復元されている。
すぐ近くに紅葉で知られる香嵐渓があり、ついでに行くのもいいかもしれない。



にしおじょう


本丸丑寅櫓(復元)
西尾城 (愛知県西尾市錦城町)
天守:なし
戦国期を中心とした主な歴史
鎌倉前期の御家人・足利義氏(来孫に尊氏)が築城した西条城が前身とされる。
1561年 徳川家臣・酒井正親が城主となる。
1585年 正親死去により子・重忠が城主となる。
1590年 徳川家康、関東移封。田中吉政の支配下に入る。
1600年 本多康俊が入城。以後、徳川譜代が歴代城主をつとめる。
(メモ)
丑寅櫓と鍮石門(ちゅうじゃくもん)は木造で復元されている。
天守の再建も計画されており、天守台がすでに完成している。



みかわよしだじょう

三河吉田城 (愛知県豊橋市今橋町)
天守:なし  続日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
1505年 今川氏親の命により、安祥城の松平長親(清康祖父)または渥美半島の戸田宗光に備え築城したといわれる。
1529年 松平清康によって攻略される。
1535年 守山崩れ。清康の死により、松平家の支配から外れる。
1546年 今川義元の支配下に入り、三河支配の重要拠点のひとつになる。
1565年 徳川家康の支配下に入り、徳川家臣・酒井忠次が城代となる。
1590年 家康、関東へ移封。池田輝政が入城する。
1600年 輝政、播磨姫路へ移封。以後、徳川譜代が歴代城主をつとめる。

(メモ)

 現在、公園として整備されているが、堀や石垣がかなり残っている。豊川に面した鉄櫓の石垣は左右で積み方が異なり、違う時代に積まれたことを物語っている。

 NHK朝の連ドラ「エール」のロケで使われた。豊橋市は、練り物が特産のひとつで、特に「ヤマサ」のちくわが有名。ドラマの序盤では、ヒロイン関内音の家の食卓に「ヤマサ」がどうかは分からないが、練り物が稀にのっている。
復興隅櫓(鉄櫓)  異なった積み方の石垣 静岡県湖西市鷲津にある本興寺山門
(吉田城大手門が移築されたもの)



おがわじょう


石碑と土塁跡


宇宙山乾坤院の山門
(緒川城正門)
緒川城 (愛知県知多郡東浦町緒川)
天守:なし
戦国期を中心とした主な歴史
15世紀後半 水野家によって築城されたといわれる。
1528年 城主・水野忠政と妻・於富の間に於大の方(家康生母)が生まれる。
1533年 水野忠政、本拠を刈谷城に移し、子・信元が城主をつとめる。
1575年 水野信元、武田家との内通で誅殺され、城は佐久間信盛の支配下に入る。
1580年 水野忠重が刈谷城主となり、弟・忠守が緒川城主となる。
1601年 水野分長が1万2千石で緒川藩主となる。
1606年 水野分長、新城へ移封。廃城となる。

(メモ)

 城跡には石碑とわずかな土塁が残るのみ。
 土塁下の公園には「於大の方生誕地」の石碑がある。
 城跡から少し離れた所にある徳川家康の生母・於大の方の実家・水野家の菩提寺・乾坤院の山門は緒川城の正門を移築したもので緒川城唯一の現存建造物。